古代、陸奥・越後・出羽国は辺国と呼ばれていました。辺国とは国家の支配領域の周縁地域にあった国のことで、辺国の外側には律令制支配に組み込まれていない蝦夷と蝦夷の住む大地が広がっていました。律令国家は七世紀半ばから九世紀初めまでに蝦夷の土地に評・郡などを置いて公民制支配を拡大し、蝦夷を服属させて蝦夷の公民化政策を展開しました。この政策実現のため蝦夷の地に城柵を設け、城柵には坂東や東国諸国の民を移住させて柵戸とし、彼等に土地の開発と村作りをさせて公民にし、郡・里を設けました。
史料上の移民の初見は『続日本紀』霊亀元(715)年五月三十日条に「相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の、富裕な民千戸を陸奥国に移し住まわせた」とあるものです。地方行政組織の最下級単位は“里”(養老元(717)年には郡に改名)で表しましたが、一里五十戸としても二十の郷が多賀城のできる前の陸奥国に誕生したことになります。律令国家は七世紀半ばから九世紀初めにかけて蝦夷の土地に評・郡を設置するために、南の地域(坂東諸国)から多数の移民を行いました。坂東は相模国足柄(あしがら)坂、上野(かみつけ)国碓氷(うすい)坂より東の地域という意味です。正史には陸奥国への移民は霊亀元(715)年から延歴二十一(802)年まであったことが記されていますが、関東系土器の出土によって、すでに七世紀後半から仙台平野・栗原地方に移民のあったことが明らかになりました。
移民が関東方面から来たことは遺跡から出土する土師器からも推測できます。関東系土器の土師器の坏(つき/椀形の器)は、東北地方でつくられた土師器坏のように土器の内側が黒色をしてなく、なでて滑らかにしていることや器形などが関東地方でつくられた土師器によく似ています。東北地方でつくられた土師器坏は水が漏れないように土器の内側に炭素を吸着させているので黒色をしており、内黒(うちぐろ)土師器と呼ばれています。関東系土師器は七世紀後半から八世紀前半で、宮城県の大崎平野を中心に仙台平野・栗原地方などの遺跡から出土していますが、これらは坂東諸国からの移民がもたらしたものと考えられます。正史では陸奥国への移民は霊亀元(715)年から延暦二十一(802)年までが記されていますが、関東系土器の出土によって多賀城が造られる前の七世紀後半から、すでに仙台・大崎平野へ坂東諸国からの移民のあったことがわかります。移民の最初は郡単位でなされ、その後は国単位でなされて新しい郷が辺境につくられました。移民の数は正史によると霊亀元年に一千戸(家族、奴婢などあわせると推計二万人か)、養老六(722)年に陸奥の鎮所に一千人、神護景雲三(769)年一月に浮浪者一千人を桃生城の柵戸に、六月には陸奥国伊治村に二千五百余人が(柵戸として)置かれました。伊治城ではなぜか十一月になって移住者を募っています。
このように先住民が住む蝦夷地に和人が入り込むとおそらく先住者と移民の間に軋轢(あつれき)が生じ、先住者の不満が反乱という形で生じることもあったのでしょうか。例えば養老四(720)年九月二八日に蝦夷が反乱し、陸奥国按察使の上毛野広人が殺されています。反乱の原因は不明ですが、考えられるのは霊亀元年の移民千戸と移配先の地元民(蝦夷)とのトラブルです。平穏に生活していた先住民からすれば、言語や生活習慣などが全く違う他所からの者が、突然、自分達の土地に集団で入り込み、柵をめぐらし、土地を支配しようとする和人への鬱積した不満が、反乱になったのではと思われます。宝亀十一(780)年三月二十二日には伊治城の大領伊治公呰麻呂の反乱があり、按察使紀広純らを殺害し、多賀城を攻めて庫の物を奪い、放火するという大事件が起こっています。
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