「なこその関」は古代に設けられていた関所ですが、その所在地はいまだはっきりしておりません。所在地がはっきりしないのは「なこその関」の名が平安時代の和歌にあるだけで、史料にはまったくない地名だからです。「なこその関」の歌も百首以上詠まれていますが、多くの歌人が「なこその関」に関心をもち、「なこその関」を歌枕にした和歌を詠ったことがわかります。
歌枕は“歌人が土地の名所(などころ)を訪ねて歌に詠んだところ”なので、歌枕は実在した場所になります。その京から遠くはなれた陸奥国の歌枕「なこその関」を訪れることができたのは限られた歌人だけで、ほとんどの歌人は都に居たまま「なこその関」を詠んだので現地の情報が少なく、そのため関がどこにあったのか所在地のはっきりしない原因のひとつになったのかもしれません。
このように「なこその関」は古代の和歌の歌枕にあるものの関の遺構や遺物が発見されてなく、それに史料もないことから「なこその関」はどこにあった関なのか不明のままでした。しかし、遺構や遺物がなく史料にもないから関はなかったと言い切れないことは、山形県の鼠ヶ関(念珠ケ関)や国府多賀城の前身とみられている「仙台郡山遺跡」が、史料にはないのに発掘調査で存在がわかったという例があるので、証拠がないから「なこその関」はなかったとは言えないことがわかります。
「なこその関」の初見
それでは「なこその関」の名が初めて世に現れたのはいつかというと、西暦800年代中頃に歌人の
小野小町が詠んだ和歌にあります。その和歌は『新勅撰和歌集』に収録されているもので「みるめかる あまのゆききのみなとぢに なこそのせきも われはすゑぬに」(貴方の通って来る路に私は「来ないで」という関を据えてはいないのに 貴方はなかなか逢ってくださらないのですね)という歌です。この和歌の「なこその関」が「なこその関」の初見になります。
小野小町はなぜ「なこその関」を知っていたのか
それでは京に居た小野小町がなぜ陸奥国の「なこその関」を知っていたのでしょうか。
小町は出羽国雄勝郡小野村(現秋田県湯沢市小野)が出生地で、父親は出羽国出羽郡司小野良真、参議小野篁(たかむら)の孫といわれ、ほかにも弘仁11年(820)頃に出羽国出羽守滝雄を父とし、出羽郡司某姓の有真の娘比古姫を母として出羽国で生まれたという伝承があります。父親が出羽守を務めたのであれば当然ながら陸奥国の事情も知っていたはずで、「なこその関」についての知識もあったでしょう。
小町が3歳の弘仁14(823)年に父と上京して右京の邸で成長し、歌才を伸ばしたとみられています。承和8(841)年、21歳の頃に正六位上で仁明天皇の更衣次位の女官となり、天皇の寵愛を受けて歌才を伸ばしたのでしょう。27歳の承和末(847) 年には従五位下となり、位田を得て生活が保障されました(『王朝の映像』角田文衛著)。そのあと文徳天皇(850~858年)の後宮に仕え、清和天皇にも仕えて貞観8(869)年頃に職を辞したようです。小町が「なこその関」を知ったのは前に記したように父親が出羽守なので隣国の「なこその関」を知る立場にあり、小町もそれを聞き知っていたでしょう。京にいた小町ははるか遠くの北方に思いをはせ、蝦夷地境の「なこその関」のを詠んだのでは。
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