「なこその関」の名は平安時代の和歌の歌枕で知られるようになりました。「なこその関」を詠んだ和歌の初見は〔(2) 「なこその関」〕で紹介したように小野小町の歌です。この歌枕は多くの歌人に詠まれましたが、実際に「なこその関」を訪れて詠んだ歌人は少なかったのです。それは「なこその関」が京から遠くにあり、訪ねるにしても多くの日数を必要としたので、簡単に訪ねることはできなかったのです。そのため多くの歌人は京に居たまま「なこその関」を詠んだのです。
次に「なこその関」(関址)を実際に訪れ、関があったことを証明できる歌数首を紹介します。
「なこそよに なこそのせきはゆきかふと 人もとがめずなのみなりけり」 源信明(さねあきら)
信明は光孝天皇の曾孫で、平安時代中期の三十六歌仙の一人。応和元(961)年十月に陸奥守で多賀城に赴任し、実際に「なこその関」を訪ねて詠んだ歌と思われます。歌は「越え難いので世に知られたなこその関だが、行き交う人を誰も検問しない名前だけの関になってしまった」という内容です。
この歌からは「なこその関」が関守もいない建物だけの関になった様子がうかがえますが、関守がいない関になったのは、それまで多賀城に置かれていた鎮守府が、陸奥国北部支配の軍事拠点として胆沢城(岩手県水沢市)に移ったので、蝦夷防衛の関が必要なくなったのかも知れません。
「みやこには ききふりぬなんほとときす せきのこなたの身にこそつらけれ」 藤原実方朝臣
かへし「ほとときす なこそのせきのなかりせば きみかねさめに まつそきかまし」 詠人不知
藤原実方は平安中期の歌人。長徳元(995)年に陸奥守として多賀城に来ています。実方は多賀城にいて「都ではもう時鳥(ほととぎす)の鳴き声を聞いたでしょうが、関(逢坂関)の東ではまだ時鳥の鳴き声が聞けないので我が身がつらいです」と詠み、その返しが「なこその関がなければ あなたが目覚めのとき 真っ先に時鳥の鳴き声をお聞せできるのに」の歌です。二人とも「なこその関」がどこにあるのか知っての歌です。実方は三年後に出羽国の歌枕「阿古耶(あこや)の松」(山形市千歳山)を訪ねての帰り、陸奥国の笠島(宮城県名取市愛島(めでしま)の道祖神前で、そこの神への不敬が原因で落馬し亡くなりました。
「ふくかぜを なこそのせきとおもへとも みちもせにちる山さくらかな」 源義家
山桜の名歌として知られるこの和歌は平安後期の武人である源義家の歌です。義家は十歳から十三歳まで父親の陸奥守頼義とともに多賀城に住み、十三歳の天喜四(1056)年に前九年の役に参戦、さらに二十七歳のとき陸奥守兼鎮守府将軍となり多賀城に来て後三年の役を戦いました。この戦いは義家の私戦とされ、論功行賞もなく陸奥守も解任されて多賀城に戻る途中、「なこその関」で「吹いてくる風をなこその関が停めてくれると思ってしまうが,道も狭くなるほど山桜の花びらが散っている」と詠んだのです。義家は十年以上も多賀城に住んだので、「なこその関」の場所を知っていたのです。
「あづまちや しのぶのさとにやすらひて なこそのせきを こえぞわづらふ」 西行法師
西行法師は平安後期の歌人で鳥羽上皇に仕えたりしましたが、保延六(1140)年、二十三歳で出家し全国を行脚。陸奥国には二六歳と六九歳に来ています。六九歳の文治二(1186)年は戦乱で焼けた奈良東大寺再建の砂金の勧進で、平泉の藤原秀衡を訪ねています。その途中、「信夫の里」(福島市飯坂)で休息したとき、老齢なのでこの先にある「なこその関」を無事に越えられるだろうかと心配した歌です。この歌から「なこその関」が平泉に行く道(東山道)の途中にあったことがわかります。
陸奥守らが詠んだこれらの歌は、「なこその関」を歴史的に証明する貴重な資料と考えられます。
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