かつて辺境といわれた古代の東北は蝦夷の地であり、和人が蝦夷地に入るには蝦夷地との境に設けられた三つの関のいずれかを通ったと考えられます。その三つの関は白河関、菊多関(きくたせき)、鼠ヶ関(念珠ケ関/ねずがせき)で、いずれも官道の国境に置かれ、古代の奥羽三関と呼ばれました(下表参照)。この奥羽三関が置かれる前、伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関(ふわのせき)、越前の愛発関(あちらのせき)という古代の三関(さんげん)があり、謀反・天皇の崩御などの変事の際、謀反者の東国逃亡を防いだ関とみられています。鼓吹軍器を備え閉門 (=固関(こげん))も出来るなど奥羽三関とは異なる関でした。古代三関は八世紀前半に設置、延暦八(789)年に廃止されたようです。
〈奥羽古代三関一覧〉
白河関は昭和 41 年に「白河関跡」として国の史跡に指定されましたが、菊多関はいまだに所在地もわかっていません。弘仁二(811)年に東海道の常陸国府以北の駅路が廃止になり、承和二(835)年に菊多関が蝦夷防衛の関から通行人検問の関に変わっているので、菊多関はその後に廃止と思われます。
ところが江戸時代になると、菊多関は「勿来関」と云われるようになります。「勿来」と書く関は江戸時代に編み出されたもののようで史料には全くない関ですが、最近の諸文献は「勿来関」と書いています。
この奥羽三関のうち、鼠ケ関は出羽国が東山道に属するようになると廃止になったとみられ、東海道の菊多関も常陸国府以北の駅路の廃止にともなっていずれ廃関になったと思われます。このとき奥羽に入る官道は東山道だけになりましたが、白河関を通った東山道は陸奥国の柴田駅(宮城県柴田郡船迫)で、陸奥国府に向かう陸奥路と出羽国府に向かう出羽路に分かれました。その路の終点は陸奥路が岩手県の志波城(のちに徳丹城)、出羽路は秋田県の秋田城でした。なお、東山道陸奥路の現利府町菅谷には駅家の「栖屋駅(すねやえき)」があったと推測されますが、その遺構や遺物はまだ見つかっていません。
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