宝亀十一(780)年三月二二日の伊治公呰麻呂の反乱では多賀城の庫の物が盗られ、多賀城が燃やされ、農民は四散し兵士も逃亡したため、もとの状態に戻るまでには長い年月を要したと思われます。
この反乱があった年、出羽国の雄勝地方でも蝦夷が反発して不穏な情勢となったため、出羽柵の出羽国府を秋田城から酒田の城輪柵(きのわのさく)に移し、農民の租税を三年間免除しています。出羽国の反乱も、律令国家への蝦夷の怨恨や移民と先住民の間のさまざまな軋轢のあったことが推測されます。
呰麻呂の反乱後の七月二二日、征東使が坂東の軍士は九月五日まで多賀城に集結するよう指示し、食糧は上総国から糒(ほしい)六千斛(こく/石)、常陸国から一万斛を八月二十日まで軍所(多賀城)に運ぶよう命じています。翌年の天応元(781)年一月一日には天皇が「伊治公呰麻呂らによって欺かれ扇動されて賊軍(蝦夷軍)に加わった民衆が賊から抜けてきたときは、租税を三年免除する。蝦夷征討に従軍して陸奥・出羽に入った諸国の人民は長い兵役に疲れ家業が破産した者も多いので、その家の今年の田租は免除するように」(『続日本紀』)と詔し、さらに二月には坂東六国から穀十万斛を船で多賀城に運ばせているので四散した農民がまだ戻っていないことがわかります。さらに翌年になっても農民が戻っていないのは『続日本紀』延暦元(782)年五月十二日条に「陸奥国では、頃年(けいねん)兵乱、奥郡の百姓、並びに未だ来集せず」(陸奥国ではこの頃になっても、兵乱による百姓が未だもどってきていない)との天皇の話もあるので、反乱後二年以上も経つのに農民が戻らなく、田畑も荒れたままになっている様子がわかります。
このように反乱後の陸奥国(多賀城)の復興は遅れていたのですが、天皇が「奥郡の百姓が未だ来集せず」と話した翌月に復興を促進するためか、『万葉集』編纂で名高い春宮大夫(とうぐうだいふ)・従三位(じゅさんみ)の大伴家持を陸奥按察使(むつあぜち)兼鎮守将軍として多賀城に赴任させています。
陸奥按察使の大伴家持は、廃墟になった多賀城の再興や農民の復帰、食糧の確保、兵士の再編、国府の防御策など、困難が横たわる陸奥国復興に最大の尽力をしたにちがいありません。後世の歴史研究家は「家持は陸奥国でなんらの功績も挙げず、多賀城で死去した」と評価していますが、家持は陸奥国復興の心労のためか、延暦四(785)年八月に多賀城で死去(六八歳)しています。
家持は亡くなる四ヶ月ほど前、国府の防御策を考えています。『続日本紀』延暦四(785)年四月七日条には「名取以南の十四郡は山や海の僻地に在って砦(多賀城)からはるかに遠く離れているので、徴兵して出動しても危急に間に合いません。このため多賀郡・階上(はすかみ)郡の二郡をつくって人民を募り、人や兵を国府に集めて東西の防御にしました。ついては郡を統率する官人を任命し、正規の郡にして官員を置くようお願いいたします」とあり、天皇はこの防御策を承認しています。
呰麻呂の反乱のとき、呰麻呂たちが何事もなく多賀城へ辿りつけたようなのは、陸奥介の真綱が同行したことのほかに、伊治城から多賀城までの道に通行者を検問する施設のなかったことが有利にはたらいたと考えられます。このため家持は通行者をチェックする関を置くために二郡を設け、その郡民を関の要員にしたのではと思われます。この国府防護策は陸奥国復興と共に家持の業績でしょう。
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※事務局より
利府「なこその関」研究会の会長であり、長年「なこその関」について研究されてきた菅原伸一が7月22日逝去されました。体に病を抱えながらも、人には見せず、研究の総仕上げのために、最後までパソコンに向かい続けた人生であられました。利府「なこその関」研究会より御哀悼の意を示すとともに、積年の辛苦を慮り、その功績を表したいと存じます。 合唱