「勿(な)来(こそ)」と書く関があります。「勿来関」は福島県いわき市にあった古代の関といわれていますが、
「勿来関」と書く関は古代にも無く文献にも無いので、近世になって編み出された関とみられます。
江戸時代、水戸藩主徳川光圀は歴史書『大日本史』の編纂を命じましたが、このとき水戸藩の地理学者・漢学者の長久保赤水(1717~1801年)は地理志(現漢文)を執筆しました。
地理志には『磐城史料稿本』(大須賀筠軒(いんけん)著)によると、「古老相伝云、上古素箋鳴尊(すさのおのみこと)東征、登此山以此地号名古曽、言其山坂之険岨勿来之意也」(古老の言い伝えによると大昔素箋鳴尊東征のときこの山に登りそこを名古曽と呼んだが、それは山坂が険阻なので来るなという意味なり)と書かれているので、赤水は「なこそ」を「な来(こ)そ(来(く)る勿(なか)れ)」として使ったように思われます。赤水が地理志に「勿来」の文字を使うと、以後の文献は「勿来」の文字を使いはじめたとみられ、現在ではほとんどの文献が「勿来」を使っているので、光圀の『大日本史』が世に与えた影響は大きかったのです。
また、赤水は宝歴十(1760)年に紀行文『東奥紀行』(原漢文)を著しています。この中に「奈古曾の関切通し」という一節があり、「馬を連ねてどんどん進み勿来関に行きあたる。険しい坂はそそりたつ岩山を穿ち路を通したもので、俗に切通しという」とあります。この文には「奈古曾の関」と「勿来関」の文字が使われていますが、同書の頭注に「名古曽関 一つは勿来と書き、一つは莫越と書く」とあるので、赤水は地理志を著した時から「なこそ」を「勿来」と書くことになったのかも知れません。
そして赤水が漢文で「勿来」と書くと、「勿来関」は「来る勿かれ」の関といわれるようになり、以後、多くの諸文献が「勿来関」と書くようになりましたが、そのような関は元来存在していないのです。
「白河関」と「菊多関」は、設置当初は外敵防衛の施設だったことが関の字に「剗」が使われているのでわかります。それが通行人検問の関に変わるのは承和二(835)年二月とみられ、歴史書『類聚(るいじゅう)三代(さんだい)格(きゃく)』に「白河剗と菊多剗は、通過する人や物を厳しく取り締まることに転換する」とあるので、
このとき両関は通行人検問の関に変わり、「剗」の字も「関」の字になったと考えられます。したがって両関は「(賊よ)来る勿れの関」ではなく、通行人検問の関になったことがわかります。
「勿来」地名の出現
「勿来」の地名が歴史上、最初に使われたのは福島県においてでした。明治22(1889)年、福島県に
関田・九面などの七村が合併して窪田村ができ、明治30(1897)年には日本鉄道が磐城線をつくり、鉄道駅を関田村に置きました。その駅名は地元関田の青年達の請願で「勿来駅」としましたが、青年達は赤水の『大日本史地理志』や『東奥紀行』で「勿来」の名を知っていたと思われます。この駅名の「勿来」が大正十四(1925)年五月に「窪田村」に使われて「勿来町」となり、昭和30(1955)年には「勿来町」が「勿来市」に、昭和41年には平市などと広域合併していわき市勿来町となりました。
このようにして「勿来」の地名が生まれ、菊多浦・九面海岸も勿来海岸と呼ばれるようになりましたが、「勿来」という地名は明治30年に「勿来駅」ができるまでなかったのです。また、関名は関のある所在地の地名を付けて呼ばれましたが、勿来関の場合は「勿来」や「なこそ」と呼ばれる場所のない、すなわち「勿来」という地名も無いところにあった関ということになります。
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