今から1300年ほど前の奈良時代、大化元(645)年の改新で誕生した律令(りつりょう)国家(刑法の律と行政法の令で公民を支配する国家)は、全国を東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海(なんかい)道・西海(さいかい)道の七つの行政区に分けました。そして7世紀後半から8世紀にかけて、各行政区内の国府と奈良の平城京を直接つなぐ幹線道路の官道(駅路(えきろ))を建設しました。国家が管理する道路なので官道とも云われましたが、その道路名は行政区と同じ名称で呼ばれました。例えば、京と陸奥国最北端にあった志波城(のちに徳丹城)を結ぶ官道も、行政区と同じ名の東山道と呼ばれたのです。
このような官道を律令国家が全国に造ったのは、国家が全国を治めるための通達を早く地方(国府)に知らせるためと、地方からの報告を早く受けるためでした。当時の最速の通信手段は使者(駅使(えきし))が馬を走らせて情報を伝達する方法でしたが、そのためには馬が走っても耐えられる強固な路面や、使者が馬(駅馬(えきま))を乗り継いだり、休憩・宿泊・食事のできる施設が必要でした。このような施設を駅家(うまや)といい、駅家のある官道を駅路(えきろ)と呼び、この交通制度を駅制といいます。
東北地方には、白河関を通る東山道と菊多関を通る東海道、ほかに日本海沿岸を通る北陸道がありました。北陸道は和銅五(712)年に越後国北部の出羽郡が独立して出羽国になると、出羽国は東山道に属したので官道も東山道(出羽路)になりますが、陸奥国へは東山道本路(陸奥路)が通っていきます。
常陸国府から太平洋沿岸部の菊多関を通った東海道は、現在の宮城県岩沼市にあった駅家の玉前(たまさき)駅へ向けて北進し、玉前駅で白河関からの東山道と合流しました。この東海道は養老二(718)年五月に、常陸国菊多郡と陸奥国の石城(いわき)郡・行方郡・曰理郡などが合併してできた石城国を通りました。その東海道は京から常陸国府までの官道を延長したものなので、石城国も東海道に属することになったのです。ところが常陸国府から玉前駅までの東海道は延歴二四(805)年に「海道諸郡の伝馬は不要」となり、さらに弘仁二(811)年四月には「陸奥国内海道の十駅を廃す」ことになって駅家もなくなり、常陸から陸奥国へ延びていた東海道は海道と呼ばれる陸奥国内の地方道になりました。このように駅家もなく不便になった道を、国司や駅使は通らなかったでしょう。
国家はこの廃止した駅路にかわって緊急用に常陸国雄薩駅と内陸部の陸奥国東山道松田駅を結ぶ連絡路の常陸道を造り、長有駅、高野駅の二駅を置きました。また、東海道の石城国と同時にできた東山道の石背(いわせ)国も、多賀城が完成すると石城国と共に消滅したようですが、それは両国が多賀城への官道工事のために設置されたことを意味しているようです。岩脊国が元の国に戻され、石城国も海道とともに陸奥国に編入されたのは、そのためでしょう。
(宮城県亘理町逢隈神宮寺ヲフロにある海道跡 )
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