文政年間(1804~1829年)に書かれた仙台大崎八幡宮祠官大場雄淵の『奥州名所図会』にあります。
『日本名所風俗図会』に使われた名古曽と勿来
この図会は雄淵が執筆途中に他界したため素稿のままになっていたのを、昭和62年に補修されて『日本名所風俗図絵』(角川書店)に収録し、出版されました。この雄淵の素稿には「名古曽」の文字のほか、『大日本史』を参考にしたと思われる「勿来」の文字も書かれていましたが、出版に際しては雄淵の意思に関係なくこの「勿来」の文字が原稿の一部にみなされ、発刊されました(右図)。そのため「勿来」の文字は赤水が“いわきなこその関”で創作した造語なのに、八幡宮の雄淵に盗用されたと、出版の事情を知らない人達に云われています。
「なこそ」という言葉は「勿来」や「名古曽」などと漢字で書かれていますが、その文字については江戸時代の平藩儒者の鍋田三善が『磐城史料稿本』奈古曽関址考(大須賀筠軒著)に次のように記しています。「鍋田翁云フ、後人勿来ノ字ヲ用フルハ誤リナリ、ナコソハナコエソニテ、莫越(なこえそ)ノ字ノ填(うず)ムベシ、来ハキソト呼テ、コソト云ル例ナシ、凡ソ関ハ越ルト云フ、昔ヨリノ詞(ことば)ノ例ナリ、好事家慢リニ雅字ヲ求ムルハ非ナリ、古歌多ク名古曽ノ三字ヲ用フ、従ウベシ、先人云、勿越ノ字ヲ用ユベシト云フハ最モ善シ、来ハキソトヨミテ、コソト呼フ例ナシトイフハ不可ナリ」と書かれています。すなわち三善は「勿来の字を用いるのは誤りで、古歌の多くは名古曽の三字を用いているので、それに従ったほうがよい」と主張しています。
また、明治三十九(1906)年に出版された『大日本地名辞書』(文学博士吉田東伍著)の「菊多剗址」項では、「勿来関址」として「勿来は元多珂と石城の道口、道尻の二柵を、おほらかに呼びたる異号にすぎず、後世、此関名を菊多関にも援引し、依りて更に詞人は名古曾山と云ひ、今は勿来の駅名もあれど、これ皆後世の事にして、結局、勿来は土地に附きて起れる名にあらず」とあり、勿来関は土地の名からできたものではないと記しています。関名は関の所在地の地名を付けて呼びますが、勿来関の場合は勿来という地名がないのに、関名に使われているということになります。
「なこそ」という言葉は「おね(屋根)を越す(なこえそ・「山を越す」)」という意味の古い言葉で、全国各地で普通に使われたようです。例えば利府町の「名古曽」・「名古曽山」・「名古曽川」、茨木県の名古曾山、千葉県丸山町の莫(な)越(こし)山(奈良期の山名)、神奈川県鎌倉の名越切通、和歌山県高野口町の名古曽村(平安期からの村名)、京都市の名古曾町・名古曾滝、熊本県の名越谷などがあります。これらの「なこそ」は「山を越す」という意味の普通名詞ですが、「なこその関」となると「山越えをするところにある関」という固有名詞になり、歌枕に使われるようになったのでしょよう。ただ、「勿来関」と書く固有名詞もありますが、これは「なこその関」とは異なります。
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