地元民は大伴家持が設置した関を「惣の関」と呼んだようです。「惣の関」と呼んだのは「ソウ」と呼ばれる場所に関が置かれたからです。「ソウ」はアイヌ語で「滝」のことですが、そこにはアイヌ語を話す先住民が住み、滝があったので「ソウ」という地名で呼ばれたのです。滝は「なこそ(名古曽)」と呼ばれる山間部を流れていた名古曽川にありましたが、のちに名古曽川は堰き止められて滝は見えなくなったと思われます。それでも和人が住むようになってからも「ソウ」という地名は残り、そこに建てられた家持の関は「ソウの関」と呼ばれ、のちに「ソウ」の当て字に「惣」が使われたようです。
惣ノ関の初見は室町時代前期の『留守家旧記』(余目記録)にあります。応永五(1398)年に利府の村岡氏で家督相続をめぐり内部抗争があったとき、『旧記』には「大崎より朔(さく)の上(大崎持詮)様、宮城に駆給ふ。府中山、いたやとをりて、大木を切塞くと雖も事ともせず。そうの関へ御出張候間、留守殿恐れ奉まつり陣を引退給う」と記されています。室町時代にはすでに「いたや」と「そうの関」の地名が使われていたことがわかります。
なこその関があったと思われる場所。赤いポインターがあるところが「惣の関北」、共栄運転代行の脇に流れる小川を境に南の地域が「惣の関南」。板谷道は現在惣の関ダムとなっている東岸から北へ向かっていた。名古曽川は画面中央を南に流れている川のこと。ゼンリン地図より
※ブログ管理人より。ここの本文はありません。これは筆者であった故菅原会長が書き上げる前に病に倒れたからだと思われます。ただし、残されたWordの中には、違う論考を用意しているようでした。そちらも別稿として記載します。
この名古曽川が山会いから出る辺りに北方の蝦夷地に行く山道があり、山道の尾根部はアイヌ語で「イロンネ タイ」と呼ばれました。「イロンネ タイ」の「イロンネ」は「茂る」、「タイ」は「森・林」のことなので、「イロンネ タイ」はアイヌ語で「茂る森林」を意味しています。この辺りは和語で森郷と呼ばれていますが、「イロンネ タイ」と森郷は全く同じ意味の言で、先住民が「イロンネタイ」と呼んだ昔の風景が、今も森郷と呼ばれて残されているといえるでしょう。
「イロンネ タイ」の「イ」音は長い間に発音されなくなり「ネ」も脱音して「ロンタイ」となり、最後には「ロンデン」になって、利府町では当て字で論伝山・論伝坂(『安永風土記』)と書かれ、大郷町では論伝・論伝畑と書かれるようになったとみられます。「論傳山」は「高十丈程、北は黒川郡大谷成田村境」、村境は「黒川郡成田村境当村分論傳と申す所迄」と記されていますが、論傳山は「なこそ山」のことで、「論傳坂」は利府村から成田村へ行く尾根道の「イタヤ道」のことでしょう。
この尾根道については文政12(1829)年頃の『奥州名所図会』に次のように紹介されています。この図絵は仙台大崎八幡宮祠官の大場雄淵が素稿を書いたものですが、そのなかの「奈古曾関陳蹟」に
〔利府駅(利府宿場)の北に山道あり。往昔の奥道なり。左兵衛尉義光朝臣(※1)国府に有りしとき、城より一里打って出て、奥道を支ゆると云ふはこの所なり。郷民伝えて、惣関とも呼ぶ。山上に勿来関明神祠あり。この地奥州三関の一にして、胆沢鎮守府より、多賀国府に通ふの要路なり。
大伴家持は地元民が「ソウ(惣)」と呼ぶ土地に国府防御の関を設置しましたが、地元民はその関を「惣の関」と呼んだようです。「ソウ」はアイヌ語で「滝」のことですが、この「ソウ」地名から「なこそ川」にはかつて滝のあったことがわかります。先住民は滝があった土地なのでそこを「ソウ(滝)」と呼んでいたのが地名になったと思われます。利府町にはこのほかにもアイヌ語で解ける地名(下記参照)が見られるので、かつては利府町にもアイヌ語系言葉を話す先住民が住んでいたことがわかります。
「ソウ」の地名はその後、和人が移住してきてからも使われ、当て字で「惣」と書かれるようになったようです。そのため「惣」の字から地名の語源を探ろうとしても無理なのですが、アイヌ語で解くと「ソウ」の意味が解けるので、「惣 (ソウ)」はアイヌ語であることがわかります。
家持はこのように東山道の「惣」と呼ばれるところに防護の関を築いたので、地元民は「惣の関」と呼びました。現在、「惣」とだけ書く地名はありませんが、利府町森郷に「惣の関北」・「惣の関南」という地名が今も残っています。
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