我国の関については『日本書紀』孝徳天皇大化二(646)年正月一日の大化改新の詔にあるのが初見です。ここに「はじめて京師(京都)を整え、畿内の国司、郡司、関塞(せきそく)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)、駅馬(えきば)、伝馬(てんま)を置き、鈴、契(しるし)を造り、山河を定めよ」とあり、関(関所)や塞(砦)を置くことが記されています。
『日本書紀』天武天皇八(679)年十一月条に「この月、はじめて関を(大和の)龍田山、大坂山に置いた」とあります。この関は皇居警護の砦(とりで)程度のものと考えられていますが、大宝元(701)年三月には律令国家が誕生し「大宝律令(たいほうりつりょう)」が施行されて、関に関する「関市令(かんしりょう)」や「軍防令(ぐんぼうりょう)」も定められました。律令の律は刑法、令は一般行政のことで、その法律で治める国が律令国家です。
「関市令」にはおおよそ次のようなことが記されています(主なもの抜粋)。㋑関や津(渡し場)を通ろうとする者は、「過所(かしょ)※1」を京ならば京職、地方ならば国司に申請して下付される。㋺行旅者が過所を携提し、および駅伝馬の乗用者が関に出入りする場合は、関司はその過所または官符を写しておき、過所・駅鈴・伝符は行旅人に返す。㋩駅鈴・伝符は年の終りに目録を太政官に申告しなければならない。㋥就役の丁匠、および庸調の運脚が関を通る場合、運脚と引率者の部領使(国郡司など)の「本国(ほんごく)の歴名(れきめい)※2」を調べ、役を終って帰郷のときも上京の時に届けた姓名・年紀を照合し、相違ないことを確認して通行させる。㋭関門は日出とともに開け日没とともに閉めること、などが定められていました。
※1. 「過所」・・関の通行許可証で、行旅者の旅の理由、通過関名、行先、従者、携行品、牛馬など記載。
※2. 「本国歴名」・・・集団で関を通行する時に必要な許可証で、「過所」に準じた内容とみられる。
「軍防令」(置関条)には「関を置き守固するもの(国司)は、軍団の兵士を分番させて警固に当たらせ、三関(さんげん)(伊勢の鈴鹿関・美濃の不破関・越前の愛発(あらち)関)には鼓吹・軍器を置き、国司は交代で関を守固する」とあります。鼓吹(鼓と吹奏楽器)は非常事態(例えば天皇の譲位・崩御など)が発生したときに警護のため関を閉じましたが(固関(こげん))、その際に使われたと思われます。
古代の関は官道の国境地点に置かれましたが、軍事や政治の状況により臨時に境界のほとりに置かれる場合もあったようです。また「令」とその注釈書『令義解(りょうのぎげ)』には「関は律(刑罰法典)に依れ。関は検判之処、剗(でん)は塹柵之所」とあり、関には通行人を検判(検問)する「関」と、塹壕(堀)と柵がある防護の「剗」のあったことがわかります。
白河・菊多の関が当初は塹柵之所だったことは、『日本後紀』延暦18(799)年12月10日条に「白河・菊田剗守六十人」とあり、関名に「剗」の字が使われていたのでわかります。それが「長門国の関に準じ白河剗と菊多剗は、通過する人や物を厳しく取締まるものに転換する」(『類聚三代格』承和2(835)年12月3日条)と検判之処に変わるので、関が使われるようになります。嘉祥元(848)年の北鹿島神宮奉帛使通関拒否事件(陸奥国への入国拒否事件)は通関を拒否したのが海道の菊多関とみられるので、菊多剗が検問の関に変わっていたことがわかります。
白河関―「一遍上人絵伝」より。絵の中央下に関司のいる関屋、その前を北上する東山道、左に柵と堀が描かれている。1299年製作。
※□に ↗のボタンから資料をダウンロードできます。