伊治公呰麻呂の反乱があった二年数カ月後の延歴元(782)年六月、まだ反乱の後始末ができてない陸奥国に歌人の大伴宿禰家持が陸奥按察使兼鎮守将軍として多賀城に着任しました。家持は参議・左大弁・春宮大夫(とうぐうたいふ)などの重職を歴任した従三位(じゅさんみ)で、着任の翌年七月には中納言に昇進し、さらに延歴三(784)年二月には持節征東将軍に任命されています。しかし着任以来の激務と心労のためか延歴四(785)年八月に多賀城で死亡したようですが、どこに葬られたのか全く不明になっていす。
家持が赴任した当時の陸奥国は反乱からの復興があまり進んでない状態にあり、陸奥国復興の重責と東北経営の責任者として家持は陸奥国に遣されたのです。そのため家持は国府の防御策も考えていたらしく、『続日本紀』延暦四(785)年四月七日条には「名取以南の十四郡は山や海の僻地に在って砦(多賀城)からはるかに遠く離れており、徴兵して出動しても危急に間に合いません。このため多賀郡・階上(しなのえ)郡の二郡をつくって人民を募り、人や兵を国府に集めて東西の防御にしました。ついては郡を統率する官人を任命し、正規の郡をつくって官員を置くようお願いしたい」と奏言、天皇はこれを認めたことが書かれています。多賀・階上の二郡はどこにあったのか不明ですが、「二郡をつくって国府の東西の防御にした」というのは、国府の東と西に防御の郡を置いたということではなく、多賀城の北方には蝦夷地へ向かって東西方向に通る東山道があり、この部分の道を「東西」と称したと思われます。「東西」は「東西の通り」のことで、東西の防御は「東西の通りの防御」の意味と考えられます。家持は蝦夷侵入防御策として東山道の「東西に走る」部分の道に関を造ったのです。
関は国境に設置されるのが普通でしたが、陸奥国と蝦夷の地の境は山中の尾根道上にあったためにそこには関が造られなかったとみられます。そしてその尾根道の境には下の写真のような「休み松」と呼ばれる松が植えられていて、陸奥国と蝦夷の地の境を示したものといわれていました。
「休み松」昭和初期(児玉徳治郎氏撮影) ※2024年4月リフノスによりカラー化
写真でもわかるように尾根上には関を設けるような場所がなく、そのため関は尾根上に設けられなかったと考えられます。それでは関がどこに設けられたのかというと、下図にあるように松島丘陵が利府耕土の東端と接する山際の平地に設けられたとみられます。この場所を通って丘陵地帯に入り、尾根の板屋道を北上して蝦夷地に行くことになったのです。山際の平地には「惣ノ関北」「惣の関南」という地名が残っているので、関はこの両地名が接する境に設けられたと考えられます。
左図の黒実線は東山道(推定)、赤丸は「なこその関」、角印は「休み松」の想定地。
事務局注:昭和3年測図・昭和6年発行の地図には、「休松」の文字がはっきり見えます。それによると、上の図で想定された位置よりも北、まさに大郷町との境界に位置していることが分かります。
今昔マップを一部加工して使用。「休み松」の脇に南北に伸びる実線が推定東山道、南に行くと「なこその関」に至る。
※□に ↗のボタンから資料をダウンロードできます。