なぜ伊治公砦麻呂が反乱を起こしたのか、その理由は前号「 (10) 伊治公砦麻呂の反乱」で紹介したように「伊治公呰麻呂は俘囚の子孫で、広純への恨みを隠し、大楯は同じ蝦夷なのに呰麻呂を見下げあなどったのを深く根にもって・・」と『続日本紀』にあります。呰麻呂は私情で反乱を起こしたように書かれていますが、もし私情で反乱を起こしたのであれば、それに従わなかった者もいたでしょう。しかし、多くの蝦夷や俘囚が反乱に加わっていたようなので反乱の原因は呰麻呂の私情によるものではなく、ほかに原因があったと考えられます。
その原因は覚瞥城造営に関するものではなかったでしょうか。陸奥国では蝦夷の本拠地である岩手県胆沢地方を手に入れるために、前線基地となる覚瞥城の造営を計画しており、それを中止させるために呰麻呂は反乱を起こしたのではと思われます。このほかに反乱の原因があったのかもしれませんが、主な原因はやはり覚瞥城造営で、胆沢地方に和人が進出するのを防ごうとしたのでは。
蝦夷の本拠地とみられる岩手県胆沢地方にもっとも近い城柵はこれまで伊治城で、国家の最北端に位置していました。そこからさらに胆沢地方に近い場所に前線基地を置くべく、覚瞥城造営の計画があったのです。この覚瞥城造営については天皇も推進しているので、覚瞥城ができるとさらに和人が進出してきて蝦夷への脅威になると呰麻呂は考え、覚瞥城の造営を中止させようとして多賀城を全焼させるような反乱を起こしたのではと思われます。
伊治城は神護景雲元(767)年十月に造られましたが伊治城のある伊治村には俘囚が住み、農耕も行われていたとみられます。伊治村は「この地は大変寒く、積もった雪はなかなか消えない」という土地のため開拓民の定着は難しかったようで、翌二年十二月には陸奥や他国の農民の伊治・桃生への移民を募集しています。さらに同三(769)年二月にも坂東八国から免税付きで移住する農民を募集していますが、やっと六月になって浮浪人二千五百余人が伊治村に来ています。しかしその移民にも逃亡者がいたのか、十一月にも免税付で坂東八国から伊治・桃生への移住者を募っています。
宝亀元(770)年八月十日には蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)らが突然徒党を率いて蝦夷地に逃げ帰る事件が起きていて、『続日本紀』には使者を遣わし呼び戻すも帰ろうとせず「一,二の同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と云ったと書かれています。また、宝亀五(774)年七月には蝦夷征討し、十月には陸奥国遠山村の蝦夷を攻撃、宝亀七(776)年二月には「軍士二万で山海の賊を討つべし」、海道では蝦夷が反乱を起こして桃生城を全焼させる事件が起きています。九月に戦いで俘囚にした蝦夷395人を大宰管内の諸国に移配し、十一月には陸奥の軍三千人で胆沢の賊を討ち、十二月には多賀城以北の諸郡を護る者を三年間の租税免除で募集しています。
このように陸奥国では蝦夷との争乱が発生していますが、宝亀八(777)年三月には「陸奥の蝦夷で投降する者が相ついだ」ということも起きています。このように騒然とした社会情勢のなかで、伊治公呰麻呂の反乱が起きたのです。
伊治城跡所在地略図
伊治城発掘調査資料より転載、加筆
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※事務局より
お盆頃、岩手への旅行がてら、覚鱉城擬定地に行ってきました。擬定地は一関市川崎町門崎川崎の北上川左岸に位置しています。平泉方面から行くと、山沿いの狭い道を通り抜けた先の開けた場所にあります。そこには擬定地とともに住宅地が広がっていました。覚鱉城は(北上川と思われる)川を渡ったところに作ったと言われており、伊沢への足掛かりですが、資料が少なく謎に包まれています。伊治城から覚鱉城は約30km、伊沢へは約40kmです。何枚か写真を貼付しておきます。著作権は放棄しますので、ご自由にお使いください。