伊治公呰麻呂(いじのきみのあざまろ)の反乱というのは、古代の陸奥国で起きた朝廷を揺るがすような大事件です。
宝亀十一(780)年三月二二日、蝦夷軍を率いて栗原郡の伊治(イチ)城を訪れた按察使陸奥守鎮守副将軍紀広純(きのひろずみ)と牡鹿郡大領道嶋大楯は、ここの大領伊治公呰麻呂の反乱により殺害され、さらに蝦夷が多賀城を攻めて城内の物品を全て奪い、最後に多賀城を焼き払うという大事件が起きました。伊治は俘囚(帰服した蝦夷)でできた蝦夷の集落なので村と呼ばれ、ここの長は大領といわれました。呰麻呂は栗原地方の俘囚の族長とみられ、神護景雲元(767)年伊治城が設けられた頃、呰麻呂はその蝦夷集団を率いて服属し、造営に協力した功績によって伊治公というウジ・カバネが与えられたのです。
伊治公呰麻呂の反乱については、『続日本紀』(宝亀十一年三月二二日条)によると次のように記されています。
(要旨)「外従五位下の伊治公呰麻呂は俘囚の子孫で、恨みを隠し広純に媚び仕えるふりをして広純の信用を得、大楯は同じ蝦夷なのに呰麻呂を見下げあなどっていたので深く根にもっていた。広純が蝦夷軍を率いて伊治城に入った時、大楯と呰麻呂はともに従っていたが、呰麻呂はひそかに蝦夷に通じ、蝦夷の軍を導き誘って反乱を起こした。まず大楯を殺し、徒衆を率いて広純を囲み殺害した。ただひとり陸奥介の大伴宿禰真綱(おおともすくねまつな)は囲みの一角を開いて出し、多賀城に護送した。多賀城には兵器や食糧の貯えが数えきれないほどあり、城下の人民は競って城中に入り保護を求めたが、陸奥介の真綱と陸奥掾(じょう)の石川淨足(きよたり)はひそかに後門より出て逃走したため、人民はよりどころをなくして、たちまち散り散りに去っていった、数日して賊徒が多賀城に至り、府庫のものを争って取り、重いものも残らず持ち去って後に残ったものは火を放って焼いた」
と書かれています。また、多賀城の後門から逃走したとされる国司の真綱と淨足は、自己都合で脱走したのではなく、事件を京に知らせるために城外に逃れ出たようです。反乱後の呰麻呂の行方は不明ですが、蝦夷の本拠地である岩手県胆沢地方に逃れたのではないかとの考えもあるようです。
真綱は早馬(飛駅)で東山道を京へ向かい、淨足は京向けの狼煙を揚げるために烽火台(のろしだい)へ向かうために城外へ逃れたと考えられます。真綱は馬を飛ばしても通常六泊七日かかるところを五日余りの二八日に京に着いて事件の報告をしています。報告を受けた朝廷ではその日のうちに中納言・従三位の藤原朝臣継縄を征東大使に、正五位上の大伴宿禰益立(ますたて)と従五位上の紀朝臣古佐美を征東副使に任命しますが、このことからも事件の衝撃の大きさがわかります。また、烽火が使われたことは天皇が五月十六日に「狂暴な賊徒が平和を乱して辺境(陸奥国)を侵犯し騒がせているが、のろし台は信頼できず、斥候は見張りを誤っている」との勅からわかります。
しかし、のろし台がほぼ20km毎に設置されていたのですが、多賀城から京までは800kmあり、四十の烽火台をリレ-したことになります。それらの烽火台がどの程度正確に内容をリレ-していたのかは疑問ですが、陸奥国から京まで烽火による情報伝達機能のあったことがわかります。二九日には早馬で駅使を務めた功労によってなのか真綱は陸奥鎮守副将軍に任じられ、四月四日には大伴益立が陸奥守兼任になりました。
写真中央に黒く横たわる丘陵に伊治城があった。西側より撮影。
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