「なこその関」は奈良時代にあった関ですが、関の遺構や遺物もなく、史料にもないので実在していなかったのではないか、あるいは「なこその関」は「菊田関」のことではないかなどの見方もあります。しかし、史料に関の記録がないからといって“「なこその関」は無かった”といえないことは、古代の越後と出羽の国境にあった「念珠(ねず)ケ関」や、国府多賀城の前身とされる「仙台郡山遺跡」が史書にはないのに、発掘調査で実在していたことが明らかになっています。
「念珠ケ関」は歌人能因の『能因歌枕』に歌枕としてありましたが、「なこその関」も歌枕として和歌に詠まれました。歌枕はその土地の名所(などころ)を歌人達が詠んだものなので、「なこその関」も「なこそ」というところにあった関が名所となり、歌枕になったと考えられます。
また、「なこその関」については現在のほとんどの学術書や辞典が「勿来関」と表記して、福島県いわき市にあった古代の関と説明しています。当研究会では「なこその関」とは異なる「勿来関」の文字は使わないことにし、「なこその関」または「名古曽関」と書くことにしました。「勿来関」の文字については後の別項でくわしく説明します。
なお、利府「なこその関」研究会からの研究報告などは、随時この“「なこその関」の謎を解く”に発表する予定ですが、これを通して「なこその関」について関心を抱き、利府地方が果たした歴史上の役割を御理解くださればありがたいと存じます。
「なこその関」の「なこそ」は漢字で「名古曾」「奈古曾」などと書かれている場合がありますが、いづれも当て字とみられます。当て字というのは語の音を漢字で表すとき、漢字の意味に関係なくその語に当てた漢字のことです。すなわち最初に「なこそ」という語(言葉)があって、その語を漢字で書き表すときに漢字の意味に関係のない字を当てはめたものです。「なこそ」という語に「名(奈)・古・曾」という漢字の意味とは関係のない字を使っているのですが、このことから「なこそ」という言葉は漢字で表記される前からあったと推測されます。すなわち「なこそ」は相当古い言葉だったと思われます。
それでは「なこそ」はどんな意味の言葉だったのかというと、元は「根越(ねこ)す」(普通名詞として尾根を越えること。山を越すの意)という言葉が変化したものと考えられます。そのため「なこそ」は「尾根を越える」という意味の普通名詞として、古くから全国各地で使われたのでしょう。
利府には小字「名古曾」や「名古曾川」、「名古曾山」などの地名が今でもあります。明治八(1875)年の『宮城郡地誌』森郷の部に「名古曾(なこそ)社」と「名古曾川」の名があります。「名古曾社」は「小社々地名古曾」とあるので、名古曾社という神社が名古曾の土地にあったことがわかります。このほかに名古曾山と呼ばれる山もありました。これらの広い地域にある地名は近世になって一斉に付けられたものではなく、「なこそ」という言葉が普通に使われていた時代に付けられた古い地名と考えられます。その地名は現在も当て字で「名古曾」と書かれ使われています。
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